これは小林一茶のユーモラスな夏の句ですね。「おい、殺すな。蠅が手を摺(す)り、足を摺り合わせて命乞いをしているではないか」という意味。1820年、一茶58歳の作といわれます。蠅のような小さな生き物にも命があり、むやみに殺すベきでないと言っています。命が惜しいと祈るかのような蠅の姿は、老境に差し掛かった一茶自身の心情を託しているとも読み取れます。さて先日、病院の講堂でのダンスの練習を終えて帰宅した時のことです。夜中の自宅マンションのキッチンで、ゴキブリを発見しました。
糸魚川のマンションには20年住ませていただいておりますが、今まで一度もゴキブリを見たことはありません。ゴキブリとは無縁のマンションと思っていたくらいです。ですからゴキブリを発見した時はフリーズしました。どこから入ってきたの? 一昔前の自分なら、迷わずスリッパでパン! でも、一茶と同じ老境に差し掛かっているのでしょうか? 自分には、それができなかったのです。ゴキブリは人の気配を感じると、キッチンの床の日本酒の紙パックが置いてある所へと移動。パック酒の片隅で、小さくうずくまっています。
「どうか、僕を殺さないで下さい。」
命乞いをするゴキブリの声なき声が、聞こえてくるようです。ゴキブリはゴキブリになりたくて、生まれてきた訳ではないのです。元・寺の娘は、お坊さん(弟)の説法を思い出しました。
「生まれたばかりの赤ん坊の命も、死に際の老人の命も、蟻(あり)の命も等しく尊い。」
お釈迦さまとは、そんなお方なのですと。
『命』は等しく尊いもの。
「スリッパでパンしないよ。お外へ逃がしてあげる。だから、このビニール袋の中に入ってね。」
元・寺の娘は、ゴキブリにそう語りかけました。しかしゴキブリは、じっとして動きません。ゴキブリには日本語が通じないようです。先日東京で開催された眼科のセミナーに参加しましたが、国内とはいえ会場はイングリッシュスピーキングでした。セミナーでは、自分は日本人が話す英語は分かりましたが、外国人が話す英語はゴキブリ君さながら。
ゴキブリに動きがみられました。パック酒のすぐ脇にある冷蔵庫の真下へ、姿を消したのです。そこでお坊さん(弟)にラインしました。
姉:「ゴキブリが冷蔵庫の下に隠れています。どうしたらよいでしょう?」
するとお坊さんから、お返事がきました。
弟:「怖い怖い。」
殺虫剤にホウサン団子、ゴキブリホイホイをすぐに買いにゆくよう、お坊さんは力説しています。(アリの命も等しく尊いと説いていたのに…)
先程まで一緒にダンスの練習をしていたリーダーにも意見を求めました。
リーダー:「成子さん、ゴキブリには罪はないよ。保護しなければ。マンションの外へ逃がそう。」
パートナー:「冷蔵庫の下から出てこないの。」
リーダー:「夜だから、ゴキブリは寝ているのかな?」
パートナー:「ゴキブリは夜行性よ!」
お坊さんとリーダーは真逆の意見です。そこで再度、お坊さんにラインしました。
姉:「リーダーは、ゴキブリには罪がないって。」
すると、禿げオヤジがメガネを鼻から飛ばしてビックリ仰天しているスタンプが、お坊さんから送られてきました。
ゴキブリを保護して屋外の安全な場所へ逃がすだなんて、チビ・ハゲ、全国民からごうごうと非難されること間違いなし。翌日、ドラッグストアでゴキブリホイホイを買って、キッチンの床に置きました。ゴキブリは1匹もかかりません。
パートナー:「ゴキブリは外へ出て行ったの?」
リーダー:「黒い生き物は頭が良いと言われるよ。カラスがそう。人の顔は覚えるし、恩義も忘れないという。命を助けてもらったから、ゴキブリは成子さんに感謝して、マンションから去っていったのでは?」
パートナー:「そうなの?」
自分達はフツーと思っていても、ボールルームダンスの競技選手は傍から見たらアンビリーバボーと思われていることが少なくないそうですね。チビ・ハゲも当てはまるの? 夏の夜の大騒動、これで見事落着!(笑)
著者 眼科 池田成子